エミリー
ストラヴィンスキーが武満さんの音楽を聴いて、「厳しい。実に厳しい」と言ったその厳しさに似たものが、嶽本野ばらさんのお話にはあると思うのでございます。
とにかく、孤高。
今日は仕事帰りにウィスキーを飲みつつ、『ロリヰタ』を読んで泣けて仕方なく、カウンターで図書館印のあるハードカバー読みながら泣いているアヤシイ人になった訳でございますけれども、もー、なんつー孤高ぶり。
野ばらさんのお話には、「この世であなただけ」というエッセンスで満ちあふれた出会いがあり、そして別れがあるのですが、ホント、あたしもこういう人と人との間柄こそ当たり前だと思いつつ、なんという厳しさよ。
野ばらさんのお話では、時は止まっているのでございます。
というか、止まった時は場所として、出てくる人間のよりどころとなり、違うベクトルで流れてゆく時間がどんなに激しく残酷でも、この場所があるから大丈夫!っていうお話なのでございます。
エミリーのラストが、野ばらさんワールドの象徴でございます。
エミリーは、女の子には絶対に勃起しないゲイの男の子と、エミリーテンプルキュートのロリータ服を愛する孤独で弱々しく、ひどく強い女の子のお話でございますが、二人はノーマルなセックスはできずとも、寄り添って眠り、そして女の子の一人称で語られるこの物語最後の文章は、
この夜に二人が番ったことを私は誰にも教えることはないでしょう。やがて貴方はSUPER LOVERSのお洋服を脱ぎ、自らのリビドーを受け入れてくれる人に出会うのかもしれない。そして私もいつしか、Emily Temple cuteのお洋服を着なくなるかもしれない。一生、二人が寄り添いながら生きてゆく可能性は、著しく少ないでしょう。貴方は前にどんどん前進し、時に打ちのめされ、何度も敗北味わう。そうすれば戻ってくればいいのです、この夜に。私もまた、未知なる数々の季節の中を手探りで歩き、転び、修復不可能なくらいに破損し、自らを失うでしょう。でも、その時は、必ず戻ってくるのです、この聖なる夜に。この夜とこの夜の番いは時間軸の外で永遠に存続し、私たちの帰りをずっと待ってくれるのですから。
というふうなのです。
5年くらい前、同い年のターがエミリー読んで号泣だったって言って、あたしも同じ本を読んで、ああランボオねくらいしか思わず、どちらかと言えばミシンの方が惹かれるわと思った野ばらさんのあからさまなテーマを、今更読んで号泣よ、まったく。
でも、あの頃のあたしはきっと、こういった夜と尾崎のアイラビューの差も大してわかってなかったんだわ。
それほど恐れ知らずなくらい、あったり前にひとりぽっちだった訳ですが、いや、実際、今もその差はわからないが、エミリーの圧倒的な美しさだけはわかる。ほんと、わかる。
そして、この二人が番った夜みたいなものも、なんとなくわかる。
あたしとっては、常に音楽がそういった帰ってゆける場所なのですが、やはり音楽は風のようで、血のような人と過ごす夜の密度とは、全然違うものでございましょう。
誰かと過ごし、それが常に帰る場所になる程のものを、野ばらさんはどうして失えると思うのだろう。
失ってゆく予感が、当たり前だと思えるのだろう。
失うしかないものが、帰る場所だなんて、あたしには一生思えないことなのでございます。
だがしかし。
どこにも行けない、どうしようもない事の美しさって、絶対にあるよねい。
そのどうしようもなさが、帰る場所になる程のしっかりとした夜だとしたら、どうしようもない事だって、おそろしく意味がある。
エミリーの、読み手の魂を引きちぎるような美しさはそこにあるのだと思います。
という訳で、今日読んで泣いたのはロリヰタだが、エミリーのススメでございます。
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